♪仰げば尊し 我師の恩――――――
体育館から歌が聞こえる。
よく晴れた空。その歌声は柔らかい日差しにに絡み合い、混ざり合っていく。
そして、遠い春風に乗って、消えていく。
今にも咲きそうな蕾を沢山つけた桜の上で、ぼんやりと私はそれを見ていた。
今日は門出の日。
私じゃなくて、あの人の。
「…やっぱりいたか」
ちょうど歌が終わった頃だった。
目を開けると同時に、バサッと隣の枝が動いて、あの人が顔を出す。
「!…………ロックオン…」
「寝てたのか?どうせずっとここにいたんだろ」
「あんたは出てたの?」
「当たり前だろ?俺達の式なんだから」
体育館に耳を傾けると、まだマイク越しの声が聞こえる。
「まだ終わってないじゃん…」
「いいの。後はもう話だけなんだから」
そういって彼は枝に腰掛けている私の向かい側の枝に座った。
「おめでとう」
「どうも」
彼との会話はいつも簡潔で。そのテンポが、私にはとても心地よかった。
「あれだけサボって、よく卒業できたね」
「それはこっちの台詞だ。よく進級できたな」
「お互い様だね」
「そうだな」
さわさわと心地よい風が吹いて、茶色の髪が揺れている。
ああ、綺麗。
初めて会ったのは去年の桜がまだ咲いているときだった。
入学式をサボっていた私の目の前に、同じようにサボろうと思って現れたこの人を、初めて目にしたときもそう思った。
綺麗だなぁって。
年の差は二個あったけど、同い年のほかの人間よりもその距離はとても近く感じられた。
それから毎日、顔を合わせるようになって。
彼は要領がよくって、適度にサボってはいたけど適度に勉強もスポーツもできた。
変な奴、だけど。
でも。
あれから、早一年がたとうとしている。
もう、見れなくなる。
「どした?…もしかして寂しいか」
「…なわけないじゃん」
「じゃあなんで、そんな顔してるんだよ」
「……………え」
寂しいわけじゃない。
別に、他愛のない話をしただけの関係だ。
そう自分に言い聞かせる。
「そんな顔しなさんな」
目を伏せていたら、くしゃくしゃと頭を撫でられた。
「…………………………」
彼には唯一欠点がある。
彼は、
優しすぎるのだ。
黙っていると、体育館から拍手が沸き起こった。
見ると卒業生が、体育館から並んで出てきている。
「お、終わったか…この後は教室だったっけ」
腕時計を眺めながら彼が言う。
「また後で来るから、そこで待っとけよ」
そう言って、こつんと私の額をはじく。
彼は優しすぎる。
甘えたくなってしまう、くらいに。
「………………いいよ、来なくて」
顔を上げることが、できなかった。
泣きそうに、なったから。
でもわかった。
彼の表情が、私の頭上で動いたのが。
「ありがとう、ばいばい」
これでいいんだ。
きっと。
拍手が止んだ。
風だけが吹いていて、木の揺れる音だけがしていた。
桜の花びらが舞った気がした。
はっとして顔を上げたら、そこに彼はいなかった。
最後の最後に傷つけてしまった。
私のありがとうにちっとも気持ちなんて入ってなくて。
ホントは言いたいこと、もっといっぱいあったのに。
そんな風に色々な感情が渦巻いた。
卒業生が見送られていくのを見ながらぼんやりと思う。
そういえばあの人は何組だったんだろう。
思えば、名前しか知らない。
ここ以外で彼にあったことはなかったし、彼のことについて深く聞こうともしなかった。
「…ああ、…そっか……」
もしかしたら、彼は幻だったのかもしれない。
桜の花びらが運んできた幻。
それでも、いい。
幻でいいからもう一度会いたい。あの緑の瞳をもう一度見たい。
「……………………ロックオン…」
「…………………おい、鈴蘭」
低い声が耳元でした。
「……!」
はじかれたように顔を上げると、そこにはエメラルド。
「何泣いてんだよ…」
長くて白い指が、頬まですっと伸びてきて、熱を持った雫を掬い取る。
「だって…………」
「戻ってくるって、いったろ…?」
「…そうだったね………」
彼は優しすぎる。
甘えても良いかな、と思ってしまうくらいに。
また視線を下げそうになってふと気づいた。
彼のボタンは全部ない。
「………もてるんだね」
「当然」
それは悲しいことなのに、心が温かくなっていくのが分かった。
渦巻いていた衝動が掻き消え、どこかに吸い込まれていく。
嗚呼、良かった。
こんな気持ちにさせてくれる奴が、幻なはずがない…
「……ここじゃなくても、また、会えるだろうが」
「…そうだね」
「お前もちゃんと、卒業するんだぞ?」
「うん」
短い言葉の中には、いっぱい気持ちが詰まっている。
それでもう、充分だった。
声にしなくても、伝わっているから。
「ロックオン」
「ん?」
「また会おうね」
「……当たり前だ」
心の底から、笑っていえた気がした。
「あ、」
思い出したように、ポケットに手を入れて。
「?」
彼は、ごろごろと五つ、丸いものを掬い出して笑った。
「餞別だ」
“愛してる”に聞こえたのは自惚れかな?
いや、彼の言葉には沢山の意味が詰まっているから、あるいはそう聞こえてもおかしくないのかもしれない。
私の手の中に、五つの丸いボタンが落ちた。
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